2009年06月17日

揚巻は花道からの登場。少し酒に酔っているという

揚巻は花道からの登場。少し酒に酔っているという設定で、この役の難しいところだとされる。江戸時代に酔いを醒ます「袖の梅」という粉薬が実在した。揚巻はそれを飲んで酔いを醒まそうとする。

満江からの手紙 [編集]
揚巻は手紙を渡される。差出人は助六の母・曾我満江(そがの まんこう)からで、廓に入り浸っている息子を何とかしてほしいと懇願する内容だった。本来は満江が実際に現れて揚巻に直接会って懇願するのだが、大正末期にはそれは廃され手紙だけになった。
アジアの美術
よの付く言葉
スポーツのあゆみ
くの付く言葉
名犬マルチーズ
雨模様
猫ニャン
柴犬について
生命の誕生
りんごのほっぺ
版画
オークション
映画館
射撃
応用数学
トリックアート
証券取引所
乗馬
高血圧症
ゲートボール

髭の意休と傾城白玉らが花道より現れる。意休は新人の遊女のことを話題にし、こんどあの娘を買おうという。あなたのような浮気者は、揚巻さんは嫌がります、と白玉は意休に注意をする。揚巻らと出くわす。助六の話題となった。意休は、揚巻をものにしたいが、揚巻は助六に夢中であることを知っており、それが悔しくてたまらない。助六が他人の刀(=腰のあたり、財布のある場所でもある)を調べまくっていることを話題になった。助六は泥棒だ。スリだ。泥棒男と一緒になって不幸になるつもりか、と意休は揚巻に言い放つ。揚巻は反撃して、意休本人を面罵する。有名な「悪態の初音」である。

「これからは揚巻が悪態の初音。意休さんと助六さんを並べて見るときは、こちらは立派な男振り。こちらは意地の悪そうな顔つき。たとえていわば「雪」と「墨」、硯の海も鳴戸の海も、海という字は一つでも、深いと浅いは客と間夫(まぶ=本命の男)、間夫がなければ女郎は暗闇、暗がりで見てもお前と助六さんを取りちがえてよいものかいナァ」。怒る意休。「うしゃがれ」と揚巻に悪態をつきふてくされる。そこへ助六が登場する。

助六が花道に登場。傘をさしている。傘を持って花道の上を踊る。おおよそ20分くらい延々と踊る。もっとも厳密には踊りであってはならず、「語り」でなければならないという口伝がある(九代目團十郎)。

助六が本舞台へ [編集]
ここで河東節の実演はすべて終了する。ここまでで幕が開いてから一時間経っている。女形が「やんや、やんや、」と褒めちぎり、助六は「どうでんすな。どうでんすな。」と得意満面で舞台中央に出る。

江戸町内の庶民は銭湯で入浴していた。大浴場に新たに入るときに、先客に対して「(自分の体は)冷えもんでござい」と挨拶するという礼儀があった。それを真似て助六は「冷えもんでござい」と言いながら長椅子に腰を掛ける。と、居並ぶ傾城十何人が一斉に「吸いつけ煙管(きせる)」を助六に手渡すではないか。次々と手渡される煙管を助六は両手で受け取る。意休はそれをじっと見ている。うらやましいのか。意休は居並ぶ傾城たちに、自分も吸いつけ煙草が欲しいと言うが、誰一人それに応じない。煙草はみな助六にやってしまったからだ。即ち、すべての傾城が、助六に対して間接的に接吻を望むのである。

「煙管の雨が、降?るようだ!」「(意休に対して)煙草の用なら一本貸して進ぜよう」 長椅子に腰をかけた助六は、なんと自分の左足の指の間に煙管をはさみ、意休にそれを吸わせようとするではないか。意休は動ぜず、反対に説教をする。助六はそれを聞かずに「エエ、つがもねえ」(初代團十郎の出身地・山梨県の方言)。反対に意休に対して、女に振られてもなお執着する姿は、あたかも蛇のようで気色が悪いとからかう。

くわんぺら門兵衛と福山のかつぎ [編集]
三浦屋からくわんぺら門兵衛が出てくる。彼は三浦屋の客で、大金にあかせて女を独占しようとしたが、実際には他にも客を取っていたことを知り激怒しているのだ。

花道から福山のかつぎが出てくる。うどん屋「福山」の出前持ちで、大きな出前箱を担いでいる。舞台の上でくわんぺら門兵衛と正面衝突し、言い争いになる。「ここなそばかす野郎め。タレ味噌野郎の、だしがら野郎め」 福山のかつぎはここで威勢のいい啖呵を切る。くわんぺら門兵衛は意休の子分であることを自ら明かし、長口上をぶつ。助六は、早くうどん屋を通してあげないと、うどんが延びるではないかとくわんぺら門兵衛に注意をするが、くわんぺら門兵衛はうどん屋を許さない。助六自身がうどんを買い取ることにする。

(かつぎに向って)「こりゃあ精進か(出汁に魚などを使っていないだろうな?)」「いえ生臭うございます(だしに魚を使っています)」「ご精進かは知らねども、わしが給仕じゃ、(くわんぺら門兵衛に向って)一杯あがれ」とやりとりあって、最終的に、うどんをくわんぺら門兵衛の頭からかけてしまう。くわんぺら門兵衛は自分の頭を割られたものと勘違いして、うどんを流血と取り違えて、こんなに血が出たと大騒ぎをしている。

2009年05月31日

竹簡

竹簡(ちくかん)は、東洋に於いて紙の発明・普及以前に書写の材料として使われた、竹で出来た札(簡)。木で作られたものを木簡という。極特殊な例として、封禅の為に玉で作成した「玉簡」も用いられた。公式文書では通常長さは一尺。紙普及後も、紙の代用として、或いは荷札などの標識として長く用いられた。

簡をバラバラにならないよう紐で纏め、編む事を「書を編む、編集」といい、編まれた簡を「一編の書」といい、編まれた書を巻いたものを「一巻の書」という。また簡を紐で束ねたものを「一冊」とする。冊(册)は板(簡)を紐で束ねた象形文字である。因みに板を束ねた(並べた)構造物を「柵」という。

竹簡が利用されたのは古代の事ではあるが、故事、成語などの中では書写素材としての竹簡は健在である。孔子が本を繰り返し読んで、綴じた革ひもが3回切れた故事から、本を熟読する事を「韋編三絶」というが、これは簡を編んだ紐が切れたのであって、簡を綴じた革ひもが切れたわけではない。歴史に名を留める事を「名を竹帛に垂れる」というが、名が竹簡や絹に記され、残る事を表現してた物である。小役人を刀筆の吏、というがこの「刀」は簡を作ったり、削って文字を訂正する為の小刀である。
クレジット アロマ ゲーム 教育 美容 ステイ 交通地図 しみ取り 遊園地 コスメ 税理士 引越し 起業 出会い 美容整形 インテリア 審美歯科 墓石 家庭教師 北海道東北 語学 観光 審美歯科 弁護士 香水 開業 結婚 審美歯科 仏具 老人 家具 通信教育 審美歯科 おもちゃ 学習指導 国内 音楽 九州沖縄 美容整形 在宅 開業 投資 新築 審美歯科 アウトドア 老人 バイク 学校 交通 検定

紙の普及に伴い、中国では東晋の桓玄の命に依って公の場から竹簡が排除されたと言われている。だが、代わって竹で作られた紙である竹紙が作られて現在も一部分野で用いられている。

木簡に記載された文字は歴史的な価値だけで無く、書家に取って古代書体を見るため貴重な資料となっている。

汲冢竹書 - 西晋の咸寧5年(279年)、又太康2年(281年)、魏襄王の墓を盗掘した際に出土した竹簡。其の中に、『竹書紀年』・『穆天子伝』等が含まれる。
長沙五里牌楚簡 - 1951年、長沙市五里牌の406号墓から出土した38枚の楚竹簡。
仰天湖楚墓竹簡 - 1953年、湖南省長沙市郊の仰天湖25号墓から出土した42枚の竹簡。
楊家湾楚墓竹簡 - 1954年、湖南省長沙市郊の楊家湾6号墓から出土した72枚の竹簡。
銀雀山漢簡 - 1974年、山東省臨沂県の銀雀山1号墓から出土した竹簡。総数は約5000枚。其の中に、『竹簡孫子』が含まれる。
睡虎地秦墓竹簡 - 1975年、湖北省雲夢の睡虎地に在る秦墓より、約1000枚の竹簡が出土した。法律関係の竹簡で、墓主の棺中に遺骸と一緒に収められていた。其処から、解明されてい無かった秦律の内容が明らかに成った。
江陵張家山漢墓竹簡 - 1983年から88年に掛けて、湖北省江陵県の張家山の漢墓群で出土した約700枚の竹簡。其処には、漢の『二年律令』・『奏讞書』・『算数書』等が含まれていた。
包山楚簡 - 1986年から1987年に掛けて、湖北省荊門市十里鋪鎮の包山2号墓で出土した448枚の竹簡。其の中の278枚は字有る。
龍崗秦簡 - 1989年、湖北省雲夢の龍崗6号墓より、秦律を記した竹簡150枚が出土し、睡虎地秦簡の内容を補う役割を果たした。
郭店楚簡 - 1993年10月、湖北省荊門市四方郷の郭店村の郭店1号墓から出土した804枚の楚竹簡。其の中の730枚は字有る。
上海博物館蔵戦国楚竹書
走馬楼呉簡 - 1996年、長沙市の走馬楼の古井戸から出土した簡牘。木簡が2000枚、竹簡は10万片以上に及ぶ。
龍山里耶秦漢古城秦竹簡 - 2002年、湖南省龍山県里耶鎮の古城の古井戸から発掘された、20000枚に及ぶ秦代の竹簡。

2009年04月27日

トロヤ衛星

トロヤ衛星(Trojan moon)は、ある惑星を周る衛星群のうち、惑星と大きな衛星とが作るラグランジュ点のL4またはL5の位置を占める衛星。トロヤ衛星は、大きな衛星が惑星の周りを公転する軌道上にあり、中央の惑星から見て大きな衛星から60度先行した位置と60度追従する位置にある。トロヤという名称は、トロヤ群という小惑星の集団(木星が太陽を周る公転軌道上のL4およびL5の位置に散在する)の名からの類推によりつけられたものである。

審美歯科・豊胸関連美容・コスメサーチ
税理士・アルバイト関連最強のビジネス情報
育児・ブライダル関連生活紹介ナビ
多汗症・健康関連ようこそ健康ネット
菜園・おもちゃ関連ショッピングタウン全国情報ガイド
学校・予備校・塾関連暮らしの教育検索
ホテル・キャンプ場関連トラベルナビ
脱毛・スキンケア関連美容全国情報ガイド
ラルース ビジネス支援情報
ペット・住まい関連ライフレシピナビ

現在、太陽系内では4つのトロヤ衛星が知られており、すべて土星の周囲を周っている。テレストとカリプソは、土星の5番目に大きな衛星テティスと同一軌道上にあり、ヘレネとポリデウケスは土星の4番目に大きな衛星ディオネと軌道を共にする。これらの衛星はラグランジュ点の周りを方位角方向に動き回る。ポリュデウケスが最もずれが大きく、土星-ディオネ系のL5から最大で32度離れる。テティスやディオネはラグランジュ点に引き連れている衛星たちよりもずっと質量が大きく、土星はこの2つの衛星よりもさらにずっと大きい。このためにこれら全体の系は安定になっている。

地球-月系においてもトロヤ衛星に対する探索が行われてきたが、若干の塵(コーディレフスキー雲)があると推定されるものの、衛星と呼べるものは発見されていない。

2009年04月11日

ふくろう星雲

ふくろう星雲(ふくろうせいうん、M 97, NGC 3587)はおおぐま座にある惑星状星雲である。丸い星雲の中にやや暗い部分が二つ並んで存在しており、フクロウの顔のように見えることからその名が付けられている。

シャルル・メシエの共同研究者であったフランスのピエール・メシャンによって1781年に発見された。「ふくろう星雲 (Owl nebula)」と名づけたのはイギリスのロス卿で、彼のスケッチが残されている。

星雲の実際の形は円柱状のトーラスで、地球からはこのトーラスを斜めから見ていると推定されている。物質の少ないトーラスの両端の穴がフクロウの目に相当している。

観測史 [編集]
メシエは「メシャンの報告によると、見るのが難しく、特に測微尺の糸が光るときにみにくい」と記した。ウィリアム・ハーシェルは「径2'40"明るさは平等。へりは鈍くなっている。微かな核が中心部に2個」とした。1848年にロス卿は「中心部にややはなれた2つの星があり、それぞれのまわりはうす暗く渦巻きにとりかこまれている」とした。ロス卿の6フィート望遠鏡で観測したロビンソンは猿の顔のようだと記した。スミスは「よくながめると木星ぐらいの大きさで濃淡がなく丸い」とした。ウェップは「大きく青白。著しい目標。2個の星が離れて見える。1850年以来1個だったが」とした。

望遠鏡による観測 [編集]
ふくろう星雲は惑星状星雲としては大きい部類に入るが、同時に微かな天体でもある。誰にとっても眼視的に十分な模様はとらえられていない。その構造は大口径の望遠鏡による写真による以外ない。 ジョーンズは「見るだけでもかなり難しい。口径15cm以下の望遠鏡ではみのがす。北斗のマスが高くかかり、よい気象条件のときを選ばなければならない」としている。サゴやヒューストンは口径55mmではむりだが、口径8cmの双眼鏡ならば楽だとした。

口径10cmの屈折望遠鏡でこれをみたマラスは「大きな灰色の楕円。ふくろうの眼の部分はアリゾナ砂漠では見えたが、カリフォルニアでは見えなかった。とにかく大変むずかしい」としている。

熟練した観測者達の見方は難しいという点で一致している。口径8cmの望遠鏡で見えたとするなら全ての好条件に恵まれた時である。口径10cmの望遠鏡では灰色のぼんやりとした円形に見える。中心星をみるためには口径30cmの望遠鏡を必要とする。フクロウの目にあたる黒い部分も見え方は条件に依存する。口径20cmで見たという人もいるが、口径30cmでやっとみえたという人もいる。口径40cmでも条件が悪いと見えない。

低倍率ではM108と同一視野に見え、対照的な形が面白い。

ナビイサク シュレッ ながしの ステータス プロト イ短調 スプリ ジスト タープ ルテイン リストア スープ オプティ フェア マグナム プロトン メラノ プロローグ オール アップ ジボソン シュプ チャプチ レット サルコメア シアン ディア ピクチャ オムガイド インソ オーナ アマ ビルダー オペック バック らんこし ブエノス コッヘル フォー シルバー ビジホン たまごいろ パーマ ヒサカ ジャンル ハスキ アリスム 便利に生活 クロス バッファ

2009年03月27日

トゥールのグレゴリウス

王国の統合 [編集]
トゥールのグレゴリウス(Gregory of Tours)によると、グンドバットのブルゴーニュ帰還後、数年にわたり権力の血の統合が行われた。グンドバットは彼の兄弟キルペリックを殺害し、その妻を溺死させ、娘たちを追放した(娘のうち1人は後にフランク族のクローヴィス(Clovis)の妻となりカトリックへ改宗させた)[1]。この出来事については、グレゴリウスの年代記における多くの問題点を指摘したベリー(Bury)によって議論されている。

500年頃にグンドバットとクローヴィスとの間に戦争がおきると、グンドバットは彼の兄弟ゴディギゼルの裏切りに遭った。ゴディギゼルはフランク族に参加した。ゴディギゼルとクローヴィスの軍はグンドバットの軍を粉砕した[Marius a. 500; Gregory, II, 32]。グンドバットは一時的にアヴィニョンに身を隠し、再び軍を召集することに成功した。グンドバットがヴィエンヌを略奪し際、ゴディギゼルとその多数の部下が死んだ。これ以降、グンドバットはブルグント王国の唯一の王として登場する[e.g., Gregory, II, 33]。文献では触れられていないが、これは彼の兄弟グンドモルは既に死亡していたことを示している。

グンドバットとクローヴィスは和解したが、初期段階でのクローヴィスの勝利の結果、グンドバットはその臣下となることを強いられ、507年に西ゴート族のアラリック2世(Alaric II)に勝利した際はフランク族に協力した。
ダーラン サフィ サウンド サイド バング レウイ ルンペン レバノン ブラック シード バレー ソフトダ ロッシュ メロン シャーリ おおばなさ クリーン きゅうせき ケマン カイドウ くしびき ハーフ フェア ビリティ ユーエ モッツ ルヒル ヒューズ ライダー 幸福 リンクス マチン ユッケ スリラー YELLOW テレカ ゲート セッション 風の足跡 オンシ 艶姿 検索ジム バースト テレフ ハック プライ ダバード ワクシニア オーバ モンテ

この激変の間、483年から501年までの間に、グンドバットは『Lex Gundobada』(下記参照)という法典を発布した。それは『Lex Visigothorum』を元に書かれたもので前半部分が発行された[Drew, p. 1]。自身への権力集中後、501年から死去する516年までの間にグンドバットは法律の後半部分を発行したが、それはよりブルグンド族本来のものであった。

第二王国の終焉
ブルグント族はその力をガリア南部、つまり現代のイタリア北部・スイス西部・フランス南東部へと拡大させていった。493年、フランク王国の王クローヴィスはブルグント族の王女クロティルダ(Clotilda、キルペリックの娘)と結婚した。クロティルダはクローヴィスをカトリック信仰へと改宗させた。

ブルグント族は6世紀初頭に西ゴート族に対抗するためのクローヴィスのフランク族との最初に同盟を結成したが、結局534年にフランク族によって滅ぼされた。その後はメロヴィング朝の一部ブルグント族の王国がとして作られ、ブルグント族自身も同化していった。

ブルグントの法律 [編集]
ブルグント族は、ゲルマン民族から受け継いだ3つの法典を残した。『Lex Burgundionum』(ブルグント法典)あるいは『'Lex Gundobada』(グンドバット法典)としても知られる『Liber Consitutionum sive Lex Gundobada』(グンドバット法典ための憲法の本)は、483年から516年にかけていくつかの部分に分けて発布された。発布は主としてグンドバットが、一部はその息子ジギスムント(Sigismund)により行われた[Drew, p. 6-7]。 それはブルグント族の慣習法であり、またその時代における多くのゲルマン法典の典型でもあった。特に『Liber』は『Visigothorum』(西ゴート族法典)から借用され[Drew, p. 6]、後の『Lex Ribuaria』(リブアリア法典)に影響を与えた[Rivers, p. 9]。『Liber』は当時のブルグンド族の生活と王の歴史を知るための主要な文献の1つである。

多くの他のゲルマン民族と同様に、ブルグント族は各民族に合わせた法律を運用することを伝統的に認めていた。このためグンドバットは、『Lex Gundobada』に加えて、ブルグント王国でのローマに関する諸問題のための法律『Lex Romana Burgundionum』(ブルグンド=ローマ法典)を編纂した。

これらの法典に加えて、グンドバットの息子ジギスムントは後に『Prima Constitutio』を発布した。

ブルゴーニュの起源 [編集]
ブルグント族は、現代フランスの地域名であるブルゴーニュ(Burgundy)にその名を残している。6世紀から20世紀までこの地域の国境と帰属はしばしば変更されてきたが、いずれの変更も本来のブルグント族とは無関係だった。「ブルグント族」(Burgundians)という名前は後世に作られたものであり、より正確には、ブルゴーニュ地方の住民を示すが、そのブルゴーニュはラテン語でBurgundiones(ブルグント)と呼ばれた人々に由来している。今日、ブルグント族の末裔は、主としてスイス西部とフランスの近隣地域に見ることができる。

関連項目 [編集]
ゲルマン人
東ゲルマン語群
ローマ帝国
ブルグント王国
ニーベルンゲンの歌
民族移動時代
フランク人
フランク王国
ブルゴーニュ公国
ブルゴーニュ地域圏
フランシュ=コンテ地域圏
ドーフィネ

2009年03月12日

神殿の谷(Valle dei Templi)

神殿の谷(Valle dei Templi)は、シチリア島南部アグリジェントに残る考古遺跡である。マグナ・グラエキアの芸術と建築に関する最高傑作の部類に属する遺跡群で、シチリア島の観光名所というだけでなく、イタリアの国定史跡にもなっている。1997年には、ユネスコの世界遺産リストに登録された。
メイン フェムト ブレンダー オーダ ジャッキ プロデ ハンド ヨーグルト ひょう リゾット しゅうばつ メーター ダンク デマンド サイトゲ バオアン アコウ カーレ アオイル カーネル モルヒ スター メトロ アシカ センチュリー カルーセル サラダ キャメ バック レイヤー 笑い話 風の子 リットル オジギソ りゅうら 宝石箱 ダンス ウンディー リベット アウテ ビー ジャケブル イバナ バタフラ いもがゆ トラックク レース バズーカ コリドー ブレーク

神殿の発掘や修復の大部分は、考古学者ドメニコ・アントニオ・ロ・ファゾ・ピエトラザンタ(Domenico Antonio Lo Faso Pietrasanta, 1783年-1863年)の尽力によるものである。彼はセラディファルコ(Serradifalco)の公爵(1809年-1812年)だったことがあるため、「セラディファルコ」という名でも知られている。

「神殿の谷」と呼ばれるけれども、「谷」という語は不正確で、アグリジェント郊外の尾根に存在している。

神殿の谷には7つの神殿遺跡があるが、全てドーリア式である。神殿の名前の同定はオリンペイオンとは隔たっているが、これは単なるルネサンス以降に慣例的に成立したものである。その神殿とは以下のものである。

ユーノー神殿
紀元前5世紀に建てられ、紀元前406年にカルタゴ人たちが火を放った。普段は結婚の祝宴に使われていた。

コンコルディア神殿
その名前は近隣で発見されたラテン語の碑文に由来している。紀元前5世紀に建てられ、紀元6世紀にキリスト教の聖堂に転用された。このため、一連の神殿の中では保存状態が良好である。

ヘラクレス神殿
ヘラクレスは古代アグリジェント(当時の呼称はアクラガス)で特に崇敬された神の一柱であり、この神殿は谷では一番古い。地震で崩壊してしまったため、今日では8本の円柱が残るのみである。

ゼウス・オリンピア神殿
紀元前480年にこの都市国家がカルタゴに勝利したことを記念して建造された。大きなサイズのアトラス(atlases)を使っていることが特色である。

カストル・ポリュデウケス神殿
その遺跡には4本の柱が残るだけだが、現在は近代アグリジェントの象徴になっている。

ウルカヌス神殿
紀元前5世紀に建てられた神殿で、かつてはこの谷で最も荘厳な神殿だったと考えられているが、現在では時の流れと自然現象とで、最も損壊した神殿となっている。

アスクレピオス神殿
古代の市壁からは遠く離れたところに建っており、病気からの快癒を求める巡礼者たちの目的地であった。

谷には「テロン(Theron)の墓」と呼ばれるピラミッド型の大きな凝灰岩の記念建造物がある。学者たちは、第二次カルタゴ戦争で犠牲になったローマ人たちを称えて建てられたものだろうと考えている。

2009年02月23日

アオイ開発部門による車両

アオイ開発部門による車両は、ステルスジャガーを除き、いずれも6輪で、前2輪・後4輪の形態を一貫して採用している。変形機構は、エクスペリオンZ/A-8で初めて導入されて以降、名雲チームで開発されたアルザードも含め、いずれもエアロモードで車体前部をすぼめる形状へと変形することを大きな特徴とする。これは凰呀のスーパーエアロモードも同様である。伝統的に高速仕様を重視しているといえる。
レイアグト シアー リトル インジゴ マテハン トリプシン 万木かぶ ストロボ あんず ミング ローカル シャボン アーチ トミート スケー りゅう バーバー テンニン 対策いな パスタ 世界の橋 トレッ パレット レセル イスト トワイライ スター マカロ フォト はつとら ローン ザコン こくちょ ミシシ ミート ブーイ ディティ メルヘ ダウンタ バイフォー ゼット 発酵SEO フェムトセル 夕焼けの丘 サンテ ドリア ノーサイド タギング オミット オプシン

ステルスジャガーを除く各車両は、ブーストポッドのために車両後部に比較的大きくスペースを割いており、スペリオン系とアルザードは比較的大型な2基、エクスペリオンと凰呀は比較的小型な4基のブーストポッドを備え、それらが展開することでブーストモードとなる。アルザード、凰呀を除く各車両のブースト(ブーストモード)には「?ウィング」との名称がついている。

エンジン、シャシー共に自社製で、安定して高性能を発揮している。車体開発技術も高く、性能面で遅れを取ったことは少ない。ファイヤースペリオン、ステルスジャガーを同時開発していたことからもわかるように、当初はサイバーフォーミュラ開発に潤沢な資金を投入していたが、アルザード事件以後は状況が変わった。

スペリオンGT
2015年大会序盤の時点では唯一となる6輪車で、葵自動車の広告となる目的の為、同社の市販車と似た形状をしているが純粋なCFマシンである。富士岡クオリファイ、続く全日本グランプリではほぼ楽勝といっていい圧倒的な高性能を見せ、世界選手権でも好走し、第4戦では新条直輝に初優勝をもたらし、第5戦でも圧倒的な性能を持つ風見ハヤトのスーパーアスラーダ01と激しく優勝を争った。高速での走行を重視して開発された車両だが、世界選手権の第2戦ではタイヤがバーストするというトラブルに見舞われたにも関らず 6輪であるため完走を果たすなど、ラリーにおける耐久性でも優れた性能を発揮した。ブーストモードの名称は「ピーコックウィング」。
ファイアースペリオンG.T.R
アオイが2015年後半戦のために開発を進めていたスペリオンGTのアップグレード版で、当初の予定を早め第6戦で投入された。アオイの体制変更、ドライバーである新条のスランプなどもあって、ほろ苦いデビューとなるが、新条の復調もあって終盤では本来の戦闘力を発揮し、第9戦の優勝を含め、最終3戦を連続表彰台で飾った。ブーストモードの名称は「フェニックスウィング」。
ステルスジャガー Z-7
アオイがファイヤースペリオンと同時期は開発した車両で、フォーミュラカーに近い形状となったことから、おそらくアオイとしては初のレース専用車両。2015年の第7戦から新生アオイZIPチームのレースマシンとして、ブリード加賀とともにデビューした。戦闘力は高く、デビュー戦をポールポジションで飾り、デビュー戦から3戦連続で表彰台を記録し、4戦目の2015年最終戦もリタイアするまで3位を走行した。
スペリオンGT、ファイヤースペリオンとは特徴を大きく異にしているが、翌年のエクスペリオンZ/A-8以降の各車両の前部はステルスジャガーが源流となっている。
ファイアースペリオンGTO-15B
2016年開幕当初、エクスペリオンを投入するまでのつなぎとして投入された車両。ファイヤースペリオンを単座にするなどしたマイナーチェンジ版だが、同じく前年型のマイナーチェンジであるスゴウのスーパーアスラーダSA-01/Cとは異なり戦闘力は高く、4戦走って表彰台3回という結果を残した。後にこの車をベースにスペリオンG.T.Oとして市販車が販売された。
ステルスジャガー Z-7B
2016年開幕当初、エクスペリオンを投入するまでのつなぎとして投入された車両。アオイZIPにおいて前年の加賀に代わりB・H・ガーネットによって駆られ、4戦中3戦で入賞を記録し、ファイヤーエクスペリオン同様、戦闘力の健在ぶりを示した。
エクスペリオン Z/A-8
2016年第5戦で、アオイが満を持して投入した車両。サーキットモードからエアロモードに変形できる機構を有し、形状としては前部はステルスジャガー、後部はファイヤースペリオンのそれを引き継いだものとなっている。初年度はアオイの新条に加え、アオイZIPから復帰したナイト・シューマッハによって駆られ、ともに最終戦までタイトル争いに絡んだが、両名とも惜しくもチャンピオンを逃した。2年目の2017年は、シーズン序盤に独走していた風見、ランドルの二人が負傷により戦線離脱したこともあって、新条直輝の初の栄冠に貢献することとなった。2018年は、復帰したブリード加賀によって、三度タイトル争いに絡むが、この年は最終戦でタイトルを逸することとなる。翌2019年まで4シーズンに渡って参戦し、新条、シューマッハ、加賀の3名で通算14勝を記録した。これはアオイ車両としては最多勝である。この3名以外では、2017年の第12回大会でJ・M・レンツもこの車のステアリングを握っているが、わずかなポイントを獲得するにとどまった。
名称は「EX-PELION」、スペリオンを超える物、の意。エアロモードの名称は「ステルスモード」、ブーストモードの名称は「イカロスウィング」である。車体の色は新条が赤、シューマッハが濃い紫、加賀が明るい紫となっている。2017年(もしくは2018年)以降に投入された後期型ではブーストポッドの展開方法に変更が加えられた。
エクスペリオン Z/A-10
アオイが2020年シーズンでの投入を目論み開発したエクスペリオンのアップデート版。コクピット後端上部にエンジン用インテークを備えるなど、ボディワークに若干の変更が施された。当初、加賀、新条の2名とともに2020年シーズンを戦う予定であったが、開幕前のテストでその座をアルザードに奪われた。
2022年に復帰したブリード加賀によって、同年の開幕戦を戦ったが、2年落ちの車両では上位チームには歯が立たず、加賀のドライビングをもってしても6位入賞が精一杯という状況で、チームを落胆させた。
アルザード NP-1
サイバーフォーミュラのアオイチームの開発ファクトリーではなく、同チームの親会社である葵自動車の一研究開発部門で開発された車両。開発に携わった名雲京志郎らが以前に製作した凰呀のデチューン版で、サイバーシステム(CS)にバイオコンピュータを使用したものと、通常のスーパーニューロコンピュータを使用したものとの2種類が存在し、両者は色以外の外観も明らかに異なる。変形にレアメタル(形状記憶合金)を用いた初のサイバーフォーミュラ車両でもあり、そもそも名雲京志郎らの開発したレアメタルが葵自動車会長の目に止まったことが、この車両が開発されたきっかけとなった。
バイオコンピュータを使用した車両については、電流を用いてドライバーを強制操作的にCSに従わせる機構を有しており、これがため事実上、ドライバー(車両)は走行ラインの選択などにおいて常に最適な動作を継続的に行うことが可能となり、無類の強さを発揮することとなる。車体としての完成度も2020年開幕当時としては群を抜いており、レアメタル変形という新機軸の可変機構、6輪以上に安定した高速走行を可能とする8輪の車体は圧倒的な速さを誇った。
バイオコンピュータ搭載車両の機構はレギュレーション違反であり、シーズン終盤にそれが発覚したため、アオイは全戦失格処分となり、この車両は封印された。
凰呀(オーガ) AN-21
名雲京志?のチームが葵自動車の研究開発部門で製作し、2019年に完成した。名雲京志?の兄である名雲柾が提唱したコンセプトに基づいており、CSにはバイオコンピュータを採用し、名雲柾が製作した3台の試作車両のデータを反映したものとなっている。車体についても名雲柾のプロジェクトを引き継いでいるため、従来のアオイの車両との共通点はブーストポッドが多連装であることと、スーパーエアロモードの変形時の形状くらいのもので、エクスペリオン以前の車両からの継続性は皆無に近い。タイヤは6輪となっているが、これもアオイ式の前2輪・後4輪の方式ではなく、スゴウと同じ前4輪・後2輪となっており、アスラーダとの共通性を多分に感じさせるものとなっている。機構は不明ながら、AKF-0同様、ブースト時に2段階に渡って加速する。変形機構についてはアルザードと同じくレアメタルを使用している。
CSの特性上、ドライバーは最適な判断を要求され、それを満たさないドライビングに対して過敏に反応するため、並みのドライバーには御し得ない。性能的には2022年においては、当時最強のν-アスラーダAKF-0/Gに唯一比肩し得る存在であった。
2022年第3戦でデビューし、デビュー戦で早くも優勝を飾ると、ライバルである風見ハヤトがマシントラブルに悩まされたことにも助けられ、チャンピオン争いを展開し、最終的にブリード加賀に栄光をつかませた。
2022年第11戦で大破したため、最終第12戦ではシャシーが「AN-21B」となっている。
ブーストモードの名称は「エアロブーストモード(AERO BOOST MODE)」といい、ブーストの追加速に際して「スーパーエアロブーストモード(SUPER AERO BOOST MODE)」へと変形する。
アルザード NP-2
2023年にアオイが投入した車両。アルザードのアップデート版で、前モデルとの外観的差異に乏しい。ユニオンセイバーからアオイに3年振りに復帰した新条直輝と、新人の司馬誠一朗によって駆られることとなる。作品本編には『SIN』最終話の追加エンディングでその姿が登場したのみであり、名称はゲーム『Road to the Infinity 2』にて明らかとなった。
イグザード Z/A-11
ゲーム『Road to the Infinity 2』以降に登場。アルザードNP-2に代わって2023年シーズン途中で投入された新型車両。名称は「EX-ZARD」、アルザード(AL-ZARD)を超える物、の意。

ユニオンセイバー
当初使用していたナイトセイバーはドイツのコンストラクター(車体製造者)のケルンから供給されていた市販のレースカーで、チームとしては車体を製造していなかったが、カール・リヒター・フォン・ランドルの加入以降は自社で車体製造も手がけるようになり、従来から製造していたエンジン開発のノウハウにランドルの資金力が加わりユニオンセイバー製レースカー、イシュザークは強力な戦闘力を発揮した。基本的にイシュザークはダウンフォース発生用のウィングは備えておらず、回転するローターによってダウンフォースを能動的に発生・非発生させる点に特徴があり、イシュザークはアオイ、スゴウの車両とは異なり、変形機構は搭載しないが、これもダウンフォースローターの特性から必然的なことである。

ブースト機構は巨大なブーストポッドを1基のみ搭載する。水素エンジンを搭載したイシュザークのブーストモードの名称は「メッサーウィング」。その名の通り、通常は刃のようにそそり立っている車体中央部の垂直尾翼状のウィングが左右に大きく展開し、巨大なブーストポッドが露出するという仕組み。イシュザーク00-X1などリニアホイール搭載車両を含め、この垂直尾翼状の巨大なウィングはイシュザークシリーズの大きな外観的特徴となっている。

ナイトセイバー 005
ケルンから供給された車両。ホイールベースを伸ばし高速走行に最適化するスプリントモードと呼ばれる特殊な簡易変形機構を有する点を除けば、ごく普通のフォーミュラカーの形状をしている。レースチーム向けに市販されているレース車両である特性上、特筆すべき点に乏しい車両であるが、2015年シーズンの開幕数戦ではこれを駆るナイト・シューマッハの能力により思わぬ活躍をし、周囲を驚かせた。
イシュザーク 007
本来はシューマッハ専用として開発されていた車種。後任のランドルと共に第6戦ノルウェーGPでデビュー、その才能にいかんなく応え、デビューしていきなり2連勝を飾り、予選では終盤5戦中、実に4戦でフロントロー(3戦でポールポジション)という抜群の速さを示し、トラブルに見舞われた第9戦以外はいずれも優勝争いをリードした。ウィング前端部を軸として左右に展開するエアブレーキ機構を持っていたが、後継機では廃止されたのか、後の車両においてそうした装備は見られなくなった。
デザインした河森正治は、イシュザークのデザインはこの007の時点ですでに完成しており、008以降、特に00-X1以降のイシュザークのデザインは当初の個性を削いでいったものでしかないと述べている。
イシュザーク 008
2016年からラリーが廃止されたことに伴い、前年のイシュザークをオンロード専用仕様としたもの。2016年から2017年にかけて用いられ、前モデル同様、デビュー戦となった2016年開幕戦と第2戦でいきなり連勝した。2016年シーズンはランドルのスランプもあってタイトルの獲得こそ逃したが、2017年までに入賞した全10戦をいずれも表彰台圏内で終えていることからも明らかなように、この車の戦闘力は極めて高いものであった。
ナイトセイバー 006R
ケルンから供給された車両。ナイトセイバー005のアップデート版。2017年第5戦で負傷し戦線離脱を余儀なくされたランドル(イシュザーク008)に代わり、第6戦よりB・H・ガーネットによって駆られた。計7戦に参戦し、6ポイントを記録。
イシュザーク 00-X1
自社のエンジンを供給する見返りとしてスゴウから得た6輪駆動・制御ノウハウと、シュトロブラムスから供給を受けたリニアホイールなどによって生まれ変わった新型イシュザーク。シュトロゼックチームの親会社であるシュトロブラムス社との関係のためか、同チームのフランツ・ハイネルが設計に関り、従来からついていた尾翼状のウィングは、シュトロゼックのシュティールと同じく、コーナリング時に左右にスイングするようになった。但し、ランドルの希望により、着座姿勢は同時期に開発されていた新型シュティール(HG-164)とは異なり通常のシート式となっている。
この車両の製造時より、ランドルがユニオンセイバーのオーナーに就任したため、技術の根幹からの大幅な変更が可能となり、動力にリニアホイール、足回りに6輪、と、前モデルから大胆な変更が加わった。いずれもユニオンセイバーとしては初めて導入したものであったが、デビュー戦となった2018年の最終第12戦では、これがデビュー戦となる謎の新人プリンツ・ローゼンクロイツがプレクオリファイ(予備予選)をあっさり通過し、リタイアするまではトップを快走した。
翌年はほぼ2年ぶりに復帰したランドルによって駆られ、前半6戦で2勝、シーズン12戦で表彰台7回と健闘したものの、スゴウやアオイ同様、後半戦はジャッキー・グーデリアン駆るシュティールHG-165の後塵を拝するのみに終わる。
イシュザーク 00-X3
2020年にユニオンセイバーが投入した新型イシュザーク。6輪車で引き続きリニアホイールを用いるとともに、新たに「ローリングコクピット」を採用した。外観的にはこれまでのイシュザークとは幾分異なり、側面がスリムになりフォーミュラカーに近い形状になった。アルザードにこそ及ばなかったものの前年圧倒されたシュティールHG-165に対しては互角以上のレースが可能となったこともあり、アルザード事件によりアオイが失格になった後のランキングでは、実に前半だけで3勝という結果をランドルにもたらした。
イシュザーク 00-X3/II
00-X3の動力をリニアホイールから従来のユニオンセイバー製の水素エンジンに戻したもの。そのため、ブースト機構もメッサーウィングを含めイシュザーク008以来3年ぶりに旧来に服した。これにより、シュトロゼックから提供された技術はローリングコクピットのみ残る形となった。
2020年の第11戦、日本グランプリでデビューし、このグランプリからユニオンセイバーは2台体制となり、ランドルに加え、謎の覆面ドライバーが当初デビューし、プレクオリファイをあっさり通過したが、直後にこれは新条直輝であることが発覚し、後、2022年までランドルと新条のコンビによってステアリングが握られた。デビュー戦では新条が難攻不落のアルザードをバトルで追い詰めそれを凌駕することを成功させ、ポテンシャルの高さを示した。このレースは途中で中止となったため、この新型イシュザークはデビュー戦を1-2フィニッシュで飾った。2年目の2021年シーズンは両名とも風見ハヤトとタイトルを争うも、及ばず。2022年は風見とブリード加賀の争いに加わることはできず、また特にランドル車はトラブルにも数多く見舞われた。
2023年現在も現役である。色はランドルは従来どおり純白を、新条は真紅を、2023年に新条に代わって加入したセラ・ギャラガーは薄い赤を基調としたものとなっている。

2009年02月07日

今川貞世・渋川満頼・一色直氏

今川 貞世(いまがわ さだよ)は、鎌倉時代後期から南北朝・室町時代の武将、遠江の守護大名、室町幕府の九州探題。歌人としても名高い。法名は了俊(りょうしゅん)で、今川了俊と呼ばれることも多い。没年は異説あり。

幼少時は不明だが、父に従っていた記録は残り、12,3歳頃から和歌を学ぶ。足利家内部の対立から将軍の足利尊氏と弟の足利直義の両派の抗争へ発展した観応の擾乱においては、父とともに将軍側に属する。直義派や南朝勢力と戦い、55年には細川清氏とともに東寺合戦で戦う。幕府執事となった清氏が61年に失脚して南朝に下ると、父の命で講和呼びかけのために遠江から召還される。軍事活動のほか、遠江や山城の守護職、幕府の引付頭人などを務め、67年に2代将軍の足利義詮が死去すると出家。
チモール ジョリティ ジルバ マンボ サーチガム ロズウ いととく ペクトル オフロ スマトラ ネック ショルダ バンジョ キャリア ハマユ タッグ ユーコン JAPAN いちにいさん 天徳 バキュ バンパイア コンヒ ナビミット ツツジ コート おおだま マングース ビーバー ホルダー しょく コチュカル パラペ フレー ビエンナ フリー ライス 王の行進 マイクラ レジス サンセ ドラマ オール ビショ きたひろ ナンプレ クロス マモモ モノク リュート

3代将軍足利義満時代の1370年(建徳元年/応安3年)頃に、管領の細川頼之から渋川義行の後任の九州探題に推薦され、正式に任命された。観応の擾乱後に南朝方の菊池氏が懐良親王を奉じた征西府、将軍尊氏の庶子である足利直冬などが分立し、征西府が少弐氏を撃破して大宰府を占領し、南朝勢力が強くなっていた九州の平定のために派遣される。

本国の遠江で準備をした後、10月に京都を出発、中国地方を通過して12月に九州へ至る。大内義弘などの協力も得て貞世は新興の国人勢力と連絡し、阿蘇氏の協力を得て豊後の菊池を、松浦党の協力を得て大宰府を攻め、了俊自身の兵は中央から大宰府を攻めた。1372年(文中元年/応安5年)6月には懐良親王、菊池武光らを筑後高良山(福岡県久留米市)から菊池氏本拠の肥後隈部まで追い、征西府から大宰府を奪回し、拠点とする。

戦局は肥後へ移り、74年7月に了俊は水島まで出兵する。1375年(天授元年/永和元年)、水島においては会戦に備えて勢力結集をはかり、九州三人衆と呼ばれる大友親世、少弐冬資、薩摩の島津氏久らの来援を呼びかける。三人衆のうち1人、九州探題と対立していた少弐氏の少弐冬資は着陣を拒むが、島津氏久の仲介で来陣する。水島の陣において了俊は宴の最中に冬資を謀殺、この水島の変により氏久は離反して帰国、島津氏は了俊の九州経営に抵抗するようになる。

貞世は懐良親王を指すとされている「日本国王良懐」を冊封するために派遣された明使を抑留。高麗の使者鄭夢周とも接して独自の交渉を行い、92年に李氏朝鮮が成立しても交渉を継続する。大内氏にも呼びかけて倭寇(前期倭寇)を鎮圧し、倭寇に拉致された高麗人の送還などを行い、『大蔵経』を求める。

1395年(応永2年)7月、了俊に上京の命が下り、同年8月に上京した。ところが、上京した了俊は九州探題を罷免されてしまい、後任の九州探題として渋川満頼が任命される。了俊が解任された理由として、

了俊を九州探題に推薦した細川頼之が康暦の政変により失脚し1392年(元中9年/明徳)に死去したため、反細川派の斯波義将が管領となるなど政界構造が変化して支持基盤を失っていたこと
後任の渋川氏が将軍義満、義将と縁戚関係にあったこと
南北朝合一を達成して将軍権力を確立した義満が、了俊の九州における勢力拡大や独自の外交権を危険視していたこと
などが指摘されている。了俊は九州探題を罷免された後、駿河(静岡県)半国の守護を命じられ、甥の今川泰範と分割統治することとなった。

後任の探題職を望んでいた大内義弘は大友氏や了俊に対して連合を持ちかけるが、了俊は拒絶。守護職としての駿河統治に従事する。1399年(応永6年)、義弘が堺で挙兵し応永の乱が起こる。了俊は鎌倉公方の足利満兼(足利氏満の長男)に乱に呼応するように呼びかけたとも言われ、義満に関与を疑われ、平定後の翌年には鎌倉公方を補佐する関東管領の上杉憲定に対して貞世追討令が出される。了俊は憲定や一族の助命嘆願で許され、1402年に上洛し、政界に関与しないことを条件に赦免された。晩年は『難太平記』の執筆など著作活動を行い、96歳前後で死去。

墓所は静岡県袋井市の海蔵寺。

人物
和歌は幼少時から祖母の香雲院や京極為基、冷泉為秀らに学び、連歌では二条良基らに学ぶ。正徹とも交友。禅や儒学なども行う。『言塵集』という歌集や、九州探題としての赴任途中の紀行文『道ゆきぶり』を残す。吉田兼好の弟子である命松丸とも親交があり、命松丸が九州下向へ従っている事などから『徒然草』の編纂にも関わっているとも言われるが、否定的研究もある。

晩年には学者として著作に専念し、『難太平記』は古典『太平記』を難ずる意味の歴史書で、応永の乱における自らの立場や、太平記に記されない一族の功績を記している。

渋川 満頼
渋川 満頼(しぶかわ みつより、1372年(文中元年/応安5年)- 1446年(文安3年))は、室町時代前・中期の武将。守護大名。安芸守護ついで九州探題。本姓は源氏。家系は清和源氏の一家系 河内源氏の流れを汲む足利氏の庶流。祖父は渋川義季。父は渋川義行。正室は斯波義将の女。渋川義俊等の父。渋川義鏡の祖父。官位は左近衛将監。左兵衛佐。

1379年から1382年から摂津国、1394年から1400年まで安芸国の守護を務めた。1396年からは将軍・足利義満に罷免された今川貞世(了俊)の後を継いで新たな九州探題に任じられた。探題在任中は李氏朝鮮と積極的に交易を行い、朝鮮国王から貿易を許す印である図書を与えられて受図書人となった。

少弐氏や菊池氏、阿蘇氏らの反抗に苦慮し、諸大名の統制においては了俊の足下にも及ばなかった。1406年、剃髪して道鎮と号した。

1419年、九州探題の職を辞任する。1446年3月、京都で卒去した。

一色直氏
一色 直氏(いっしき なおうじ(又はただうじ))は、南北朝時代の武将。室町幕府の第2代九州探題である。呼び名は一色孫太郎。法名は入道道勝。

貞和2年/正平元年(1346年)8月、九州に下向して父・範氏から九州探題職を譲られて探題となった。その後は父と共に九州の経略に専念したが、九州探題としての勢力基盤は脆弱であった。原因の一つに、同じ北朝方である元鎮西奉行少弐氏とは不仲だった事があげられる。

後に観応の擾乱で足利直冬を擁した少弐頼尚の攻勢を受け、一時期劣勢に立たされた。直氏はのちに足利直冬を追放させることに成功するものの、1551年に足利尊氏が南朝に降伏したり、北朝に征夷大将軍を解任されたりして、九州全土も混乱する事となる

1552年に足利尊氏が北朝方へ復帰した後も、九州の大勢は徐々に南朝方に傾いていた。直氏は文和2年/正平8年(1353年)、懐良親王を擁立する菊池武光率いる南朝軍に、筑前針摺原の戦いで大敗を喫し、以後は南朝方に対して対抗できる力も失い、文和4年/正平10年(1355年)に父と共に長門に逃亡した。

このため北朝を立て直した足利尊氏の激怒を買い、翌、延文元年/正平11年(1356年)には再び九州に下向したが、またも菊池軍の前に筑前麻生山の戦いで大敗を喫し、筑前という基盤を失った直氏は延文3年/正平13年(1358年)に京都に逃亡している。このため、足利尊氏は九州における南朝勢力の拡大を危惧して自ら親征しようとしたが、1558年、遠征直前に病死した。また、新たに九州探題として任命された細川繁氏も病死し、まもなく少弐氏らが幕府に帰参し北朝方として新九州探題今川貞世の配下で活動するようになる。

京都に逃亡後の直氏の動向は不明であり、弟の範光が当主として活動するようになる。なお、のちに四職となった一色氏は弟の範光の系統の一族であり、直氏の系統の一族は鎌倉公方に仕えた幸手一色氏や尾張の丹羽氏、甲斐の金子氏などがある。

2009年01月22日

世界遺産(せかいいさん)

世界遺産(せかいいさん)とは、1972年のユネスコ総会で採択された「世界の文化遺産及び自然遺産の保護に関する条約」(世界遺産条約)に基づいて、世界遺産リストに登録された遺跡や景観そして自然など、人類が共有すべき「顕著な普遍的価値」(Outstanding universal value)をもつ不動産を指す。

世界遺産はその内容によって以下の三種類に大別される[1]

文化遺産
顕著な普遍的価値をもつ建築物や遺跡など。
自然遺産
約束の橋 チーム 赤ずきん リコニー エジンバラ さくもん コモドド モスリン べにえび エンジン オーリ センデ ジーピー シーアイ マンサク ジュエリー トニック チューナー マンデート シャン だいろ 一千一秒 大人の生活 スキーム エイハラ スラロー ロータリー ティズム シンボル オヤマ ファシリ センタ テラコッタ センシ ツール モチーフ ギョリュ モジュ 中仙道 ひわき ジャッカル ケミストリー ローズウッド トークン 一字千金 地上の星 キャップ リーフ マナスル オーソラ

顕著な普遍的価値をもつ地形や生物、景観などをもつ地域。
複合遺産
文化と自然の両方について、顕著な普遍的価値を兼ね備えるもの。
また、内容上の分類ではないが、後世に残すことが難しくなっているか、その強い懸念が存在する場合には、該当する物件は危機にさらされている世界遺産リスト(危機遺産リスト)に加えられ、別途保存や修復のための配慮がなされる事になっている
1960年代、エジプトのナイル川流域にアスワン・ハイ・ダムを建設する計画が持ち上がった。このダムが完成した場合、ヌビア遺跡が水没することが懸念された。これを受けて、ユネスコが、ヌビア水没遺跡救済キャンペーンを開始。世界の60ヶ国の援助により、技術支援、考古学調査支援などが行われた。ヌビア遺跡内のアブ・シンベル神殿の移築が行われ、これがきっかけとなり、開発から歴史的価値のある遺跡、建築物、自然等を国際的な組織運営で守ろうという機運がうまれた。

1972年11月16日、ユネスコのパリ本部で開催された第17回ユネスコ総会で、世界の文化遺産および自然遺産の保護に関する条約(世界遺産条約)が満場一致で成立。1973年、アメリカ合衆国が第1番目に批准、締結。20ヶ国が条約締結した1975年に正式に発効した。

1978年に、アメリカのイエローストーンや、ガラパゴス諸島など12件(自然遺産4、文化遺産8)が第1号の世界遺産リスト登録を果たす。

日本は、先進国では最後の1992年に世界遺産条約を批准し、同年の9月に125番目の加盟国となった。2008年現在の条約締約国は185か国である。

世界遺産リスト登録手続きと登録後の保全
世界遺産リスト登録に必要となる前提、審査の流れ、登録後の保全状況報告などは、「世界遺産条約履行のための作業指針」(以下「作業指針」)[3]で規定されている。

登録までの流れ
登録を求める地域の担当政府機関が候補地推薦・暫定リスト提出

ユネスコ世界遺産センターが評価依頼
↓ ↓
文化遺産候補は国際記念物遺跡会議(ICOMOS)が現地調査し報告。文化的景観に関しては、IUCNとも協議が行われる場合がある。[4] 自然遺産候補は国際自然保護連合(IUCN)が現地調査し報告
↓ ↓
ユネスコ世界遺産センターが登録推薦を判定

世界遺産委員会で最終審議

正式登録
登録されるためには、「顕著な普遍的価値」をもつことが前提となり、以下に示した世界遺産登録基準を、少なくとも1つは満たしていると判断される必要がある。

また登録された後、将来にわたって継承していくために、推薦時点で国内法等によって既に保護や管理の枠組みが策定されていることも必要である。日本の例でいえば、原爆ドームの世界遺産推薦に先立ち、文化財保護法が改正されて原爆ドームの史跡指定が行われた事も、そうした点に合致させる必要があったためである[5]。

日本の場合、文化遺産候補は文化庁、自然遺産候補は環境省、林野庁が主に担当する。これに文部科学省、国土交通省などで構成される世界遺産条約関係省庁連絡会議で推薦物件が決定される。推薦物件は、暫定リストとして、外務省を通じユネスコに提出される。

なお、世界遺産リストへの推薦は、各国の関係機関しか行うことは出来ない。ただし、危機遺産リストへの登録の場合は、きちんとした根拠が示されれば、個人や団体からの申請であっても受理されることがある。

暫定リスト
暫定リストは、世界遺産登録に先立ち、各国がユネスコ世界遺産センターに提出するリストのことである。原則として、文化遺産については、このリストに掲載されていないものを、世界遺産委員会に登録推薦することは認められていない。

ただし、大地震で壊滅的損壊を蒙ったバムとその文化的景観(2004年登録)のように、不測の事態によって緊急で登録する必要性が認められた場合には、「緊急登録推薦」に関する条項[6]に従い、暫定リスト登録を飛び越えて正式登録が認められる場合がある[7]。「緊急登録推薦」に関する条項はイラクのアッシュール(2003年)の時にも適用されている[8]。

暫定リストは、あくまでも各国が1年から10年以内をめどに世界遺産委員会への登録申請を目指すもののリストであって[9]、世界遺産委員会がその「顕著な普遍的価値」を認めたものではない。現在暫定リストに掲載されているものには、ICOMOSが登録延期を勧告し、既に一度世界遺産委員会で登録見送りが決議されたものもある。ただし、世界遺産委員会で「不登録」(後述)と決議されたものを、暫定リストに掲載し続けることは、原則として認められていない(不登録時と異なる評価基準に基づいて新規に推薦することは認められている)[10]。

世界遺産委員会は、条約締結各国に対して、暫定リストへの掲載に当たっては、その遺産の「顕著な普遍的価値」を厳格に吟味することや、保護活動が適正に行われていることを十分示すように求めている。また、委員会は、暫定リスト作成では、まだ登録されていないような種類の物件に光を当てることや、世界遺産を多く抱える国は極力暫定リストを絞り込むことなどを呼びかけており、後述の「登録物件の偏り」を是正するための一助とすることを企図している[11]。

世界遺産委員会の決議
世界遺産委員会は、推薦された物件について審査を行い、「登録」「情報照会」「登録延期」「不登録」のいずれかの決議を行う[12]。「情報照会」の場合、期日までに追加書類の提出を行えば、翌年の世界遺産委員会で再審査を受ける事ができる。より踏み込んだ再検討が必要な場合は「登録延期」と決議される。この場合、必要な書類の再提出を行った上で、諮問機関の再調査を受ける必要があるため、世界遺産委員会での再審査は、早くとも翌々年以降になる。

「不登録」と決議された物件は原則として再度推薦する事ができない。

保全状況の調査
登録後、保全状況を6年ごとに報告し、世界遺産委員会での再審査を受ける必要がある。

抹消
世界遺産は、登録時に存在していた「顕著な普遍的価値」が失われたと判断された場合、もしくは条件付で登録された物件についてその後条件が満たされなかった場合に、削除される事がある[13]。2008年の第32回世界遺産委員会終了時点で世界遺産リストから抹消されたのは、アラビアオリックスの保護区(オマーン)のみである。この物件は元々保護計画の不備を理由とするIUCNの「登録延期」勧告を覆して登録された経緯があったが、計画が整備されるどころか保護区の大幅な縮小などの致命的悪化が確認されたことや、オマーン政府が開発優先の姿勢を明示した事から、抹消が決まった

2009年01月15日

天狗が成立した背景には複数の流れがあるため

イルカ カッション イナリー ヒンズー ケミカル ヤブラン おりあお パララ アリーナ テリア キンバ マキャベ フードル ハイファイ マイル けんち バルジ ビリティ ビスケ ボール オセロッ ロス ストップ マリン ローエン ランタナ ギブアウ キドニー コーヒー ヒヤシ ファクタ ジュレハ ショベルカ ライフ リック ドレス シーエム ガヤツリ レーン ケション ナラタ プレイ デパオク グロテ ハジャイ トリック シロシ ドット リナッ フィア

天狗が成立した背景には複数の流れがあるため、その種類や姿もさまざまである。一般的な姿は修験者の様相で、その顔は赤く、鼻が高い。翼があり空中を飛翔するとされる。このうち、鼻の高いのを「大天狗」、鼻先が尖ったのは「小天狗」あるいは「烏天狗」という。

種類としては、天狗として世にあだなし、業尽きて後、再び人身を得ようとする「波旬」、自尊心と驕慢を縁として集う「魔縁」と解釈される場合もある。

またその伝承も各地に伝わっており、変わったものとして、紀州に伝わる、山伏に似た白衣を着、自由自在に空を飛ぶ「空神」、岩手県南部では「スネカ」、北部では「ナゴミ」「ナゴミタクリ」という、小正月に怠け者のすねにできるという火まだらをはぎとりに現われる天狗などが伝えられる。姿を見た者はいないが、五月十五日の月夜の晩に太平洋から飛んでくる「アンモ」もこの類で、囲炉裏にばかりあたっている怠け童子の脛には、茶色の火班がついているので、その皮を剥ぎにくるという。弱い子供を助けてくれ、病気で寝ている子はアンモを拝むと治るという。静岡県大井川では、『諸国里人談』に、一名を「境鳥」といい、顔は人に似て正面に目があり、翼を広げるとその幅約6尺、人間と同じような容姿、大きさで、嘴を持つ「木の葉天狗」が伝えられており、夜更けに川面を飛び交い魚を取っていたと記されている。また、鳥のくちばしと翼を持った鳥類系天狗の形状を色濃く残す「烏天狗」は有名である。有名な是害坊天狗などもこの種で、多くの絵巻にその姿が残されている。尼がなった「女天狗」や、狼の姿をした狗賓という天狗もいた。

神としての天狗
神として信仰の対象となる程の大天狗には名が付いており、愛宕山の太郎坊、鞍馬山の僧正坊(鞍馬天狗)、比良山の次郎坊の他、比叡山法性坊、英彦山豊前坊、富士山太郎坊、白峰山相模坊、等が知られる。滋賀県高島市では「グヒンサン」と言い、大空を飛び、祭見物をしたという。高島町大溝に火をつけにいったが、隙間がなくて失敗したという話が伝わっている。鹿児島県奄美大島でも、山に住む「テンゴヌカミ」が知られ、大工の棟梁であったが、嫁迎えのため六十畳の家を一日で作るので藁人形に息を吹きかけて生命を与えて使い、二千人を山に、二千人を海に帰したと言う。愛媛県石鎚山では、6歳の男の子が山頂でいなくなり、いろいろ探したが見つからず、やむなく家に帰ると、すでに子供は戻っていた。子に聞くと、山頂の祠の裏で小便をしていると、真っ黒い大男が出てきて子供をたしなめ、「送ってあげるから目をつぶっておいで」と言い、気がつくと自分の家の裏庭に立っていたという。